 |
 |
 |
 |
デビュー前夜 〜ハンブルク仕込みのロックンロール〜 |
|
 |
ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、そしてスチュアート・サトクリフ(スチュ)の4人はシンガーのバックバンドやクラブでの演奏を中心に活動。そして、ドラマーを加入させるという条件つきで、ドイツ/ハンブルクでの滞在型長期ツアーの切符を手に入れる。ついに俺たちも本格的なミュージシャンだと、バンド名を「ザ・ビートルズ」と改名。喜び勇んでハンブルクへ出かけるも、毎晩8時間以上、夜通し演奏するという過酷な条件、さらに客は酔っぱらいや荒っぽい船乗りたちだった。「派手にやれ!」と叫ぶ客に、ジャンプしたり、床を転がるなどパンキッシュな演奏を展開、いつしかステージングも身につき、無理難題なリクエストに応えるうちにレパートリーも広がっていった。 |
 |
|
 |
|
 |
 |
 |
デビューに至るまでの運命的な出会いと別れ |
|
 |
スチュがドイツの恋人のもとへ残り、ポールがベーシストに。スチュがドイツで制作し、ビートルズがバック・バンドを務めたトニー・シェリダンのレコードをリバプールのDJに送ったこともきっかけのひとつとなり、レコード店のオーナー、ブライアン・エプスタインがビートルズのライブ会場を訪れ、そのカリスマ性に圧倒されたエプスタインがマネージャーに就任。オーディションや数々のデモ・テープ審査にビートルズは落選するも、最後にEMI傘下のレーベル「パーロフォン」のプロデューサー、ジョージ・マーティンに出会う。デビュー・シングルのレコーディング・セッションでドラマーがピート・ベストからリンゴ・スターにチェンジ。こうして、ビートルズ伝説に必要なカードが劇的にそろった。 |
 |
|
 |
|
|
|
 |
 |
 |
 |
 |
ポリシーと反骨精神を貫く |
|
 |
前年にオリジナル曲「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビューしたビートルズ。チャート17位という、まずまずの成果を収めるも、当時、新人がオリジナル曲でデビューすることは稀(まれ)で、ふつうならば職業作曲家が書いた曲があてがわれる。ビートルズは自分たちの言葉で歌うということにこだわっており、これを許可したプロデューサーのジョージ・マーティンの懐の深さも感じられる。ビートルズもマーティンもともに反骨精神の塊だった。この年に発売されるセカンド・シングルでは、オリジナル曲「プリーズ・プリーズ・ミー」を「テンポアップしたほうがいい」という、マーティンのアドバイスに従ってアレンジし直し、みごとチャート1位に輝いた。 |
 |
|
 |
|
 |
 |
 |
ビートルマニア登場! |
|
 |
「プリーズ・プリーズ・ミー」がチャート1位を獲得したあと、「フロム・ミー・トゥ・ユー」「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」とたて続けにヒット連発。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。ほかのアーティストとのパッケージ・ツアーでは次々と前座からメインに昇格し、地元のライブ・ハウス「キャバーン・クラブ」では観客が収まりきらなくなり、ホール級の会場に進出。ビートルズがステージに現れると集団ヒステリーのように、叫び、泣き、なかには失神する者まで現れた。各地で起こるこの現象をマスコミが面白がって取り上げ、ついにこの年の10月14日のデイリー・ミラー紙に「ビートルマニア」という言葉が登場した。 |
 |
|
 |
|
 |
 |
 |
バンド・デビュー、続々 |
|
 |
アマチュア時代のローリング・ストーンズに自分たちと同じリズム&ブルースのルーツを感じたビートルズは、以前自分たちをオーディションで落としたデッカ・レコードの担当に有望なバンドがいることを進言。ストーンズのデビューが決まる。その後、ヒット曲に恵まれないストーンズに「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」を提供。これがみごとにストーンズの初ヒットとなった。翌1964年にビートルズがアメリカ進出をはたしたことにより、ストーンズをはじめ、アニマルズ、デイブ・クラーク・ファイブ、ザ・フー、ハーマンズ・ハーミッツら、イギリスのバンドが次々にアメリカに上陸。これはブリティッシュ・インベージョンと呼ばれ、一大ムーブメントとなった。 |
 |
|
 |
|
|
|
 |
 |
 |
 |
 |
アメリカ制覇 〜驚異のエド・サリバン・ショー〜 |
|
 |
シングル「抱きしめたい」が全米チャート1位に輝き、ビルボードの1位から5位を独占するなど、アメリカは空前のビートルズ・ブーム。テレビ番組『エド・サリバン・ショー』にも出演。72パーセントという史上最高視聴率を記録。単純計算では、当時アメリカ全土のおよそ2,324万世帯、7,300万人がこの番組を見たと記録されている。放送時は青少年犯罪が1件も起こらず、交通渋滞や水道代が激減したという逸話もあるほど。この番組がきっかけで、ブルース・スプリングスティーンやビリー・ジョエルら、のちのアメリカのロック・シーンを支える若者たちがエレキ・ギターを手にし、ロックンロール・バンドを結成することになる。 |
 |
|
 |
|
 |
 |
 |
初の主演映画『ハード・デイズ・ナイト』 |
|
 |
この年、初の主演映画を製作。ビートルズは「エルビス・プレスリーの映画のように無意味に突然歌い出したりするようなものは嫌だ」と注文を出している。ストーリーは実際のビートルズのハードな日常を、少し面白おかしく脚色したドキュメンタリー・タッチの映画となった。主役はリンゴで、ステージでは後方でドラムを叩くリンゴがフィーチャーされたことにより、ビートルズの魅力はより多様化した。動くビートルズを見たことのない人にとって、ビートルズの演奏は刺激的で、映画館にもかかわらず、絶叫したり、スクリーンを切り取る者まで現れた。この映画で4人の顔と名前が識別できるようになったファンも多く、さらにビートルズの人気は高まっていった。
Yahoo!映画で『ハード・デイズ・ナイト』の詳細を見る
|
 |
|
 |
|
|
|
 |
 |
 |
 |
 |
ターニング・ポイント「ヘルプ!」と「イエスタデイ」 |
|
 |
1作目の成功を受け、次の映画が製作された。しかし、ナンセンスな娯楽映画に4人はモチベーションを見いだせなかった。映画のタイトルが決まり、ジョンはそれに合わせて急いで曲を書くが、おのずと自分の感情が曲に表れてしまった。10代のころに思い描いていた自分と今の自分とのギャップに押しつぶされそうなジョンは、「助けてくれ!」と叫んだ。そして同じ時期、ポールはのちにスタンダードとなる「イエスタデイ」を作曲した。ジョンとポールは大きなターニング・ポイントを迎えようとしていた。2作目の映画の邦題は『ヘルプ! 4人はアイドル』だったが、まさに世界のアイドルとしてのビートルズの時代に4人自身が幕を下ろそうとしていた。
|
|
 |
|
 |
 |
 |
フォークとの融合 〜ディラン時代〜 |
|
 |
前年にボブ・ディランと出会い、もっともディランに傾倒していたジョンは、みずからも「ディラン時代の曲」と呼ぶ多くの楽曲を発表していく。こうしたフォーク・ロックからの影響と、ルーツのひとつであるカントリーの影響、そしてそれを得意とするロックンロールにミックスし、前年にはアルバム『ビートルズ・フォー・セール』、この年には『ヘルプ!』を発表している。こうして生まれたビートルズ独特のグルーヴはフォーク・ロックの元祖とも位置づけられる。ディランもまたビートルズに影響を受け、フォーク・ギターをエレキにチェンジしたのは有名だ。 |
 |
|
 |
|
 |
 |
 |
ライブ・バンドからレコーディング・アーティストへ |
|
 |
ビートルマニアによる悲鳴でビートルズは自分たちの演奏が聞こえなかった。「俺たちを見るならコンサートで、曲を聴きたいならレコードを買えばいい」と強がっていたものの、「これでは、いくら演奏してもうまくならない」と4人はミュージシャンシップの危機を感じていた。そして、ツアー活動への意欲が落ちるのと反比例するように創作意欲は高まるばかり。この年に発表したアルバム『ラバー・ソウル』はレコーディング・アーティストとしてのビートルズの新たなスタートであり、ボーカル・バンドとしての実力が最大限に発揮された傑作となった。ビートルズは『ヘルプ!』でアイドル時代を終え、本格的アーティストとしての道を歩み始めたのだ。 |
 |
|
 |
|
|
|
 |
 |
 |
 |
 |
新たなる意識の芽生えと絶頂期でのコンサート活動休止 |
|
 |
スモーキー・ロビンソンは、「ビートルズは、ブラック・ミュージックの影響を初めて認めた白人アーティストだ。その誠実さが大好きだ」とコメントしている。人種差別による暴動が起こったばかりのフィラデルフィア公演でビートルズは、「黒人が自由に座れるようにならないかぎりは出演しない」と新聞声明を出した。こうしたビートルズの行動はKKK団に目をつけられており、さらに「俺たちはイエスより人気がある」と、キリスト教がイギリスでは落ち込んでいる例えを語ったジョンの発言が原因で、アメリカでビートルズ排斥運動が起こる。脅迫状が舞い込み、実際に爆竹を投げ込まれた会場もあった。このことが、コンサート活動休止の引き金となった。 |
 |
|
 |
|
 |
 |
 |
『リボルバー』のレコーディング革命 |
|
 |
ポールとジョンは当時「エレクトロニック・ミュージック」と呼ばれていた前衛音楽に凝っていた。ここで使用されていたテープ・ループやテープの逆回転といった手法を「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ」や「アイム・オンリー・スリーピング」に取り入れている。また、ジョージはインド音楽を積極的に取り入れ、シタールやタンブーラを導入した。さらに、高域を上げるならめいっぱい、また低域ならめいっぱいと、業界の御法度もなんのその、興味があることは何でも実行した。そして、実験的アプローチは加えるものの、サウンドの方向性はモータウンで、アバンギャルドでポップという不思議なアルバム『リボルバー』が完成した。 |
 |
|
 |
|
|
|